さくら会からのお知らせ

さくら会初代会長を悼む

長井弘 初代会長を悼む。
富士見丘学園後援会会長 小川秀哉

去る4月18日昼過ぎ、富士見丘学園後援会(さくら会)の初代会長を務められた長井弘さんのご長女から一本の電話を頂戴した。
「昨日、父が亡くなりました。85年の生涯でした。」
長井さんは、平成17年の後援会創立当初から平成28年までの11年間、同会の会長を務められた、私たちにとって大恩のある方である。
瞬間、私は、「あの豪放磊落な謦咳に接することは二度と出来ないのか、酒を酌み交わしながらあの豪快な笑い声を聞くことはもうないのか」と、胸が詰まった。
それから、私は、長井さんと初めて出会った日のことを思い出していた。
それは、今から15年前の平成17年11月12日、この日の午後、学園の旧校舎にて後援会(さくら会)の設立総会が催されることになっていた。当時、学園は現在の旭区中沢ではなく、保土ケ谷区東久保町に在り、最寄り駅はJR横須賀線の「保土ケ谷駅」であった。保土ケ谷駅から学園へ行く途中には「七曲坂(インク坂?)」というかなり嶮しい坂があり、その坂にはコンクリートの階段が敷設されていた。さて、設立総会当日、私は保土ヶ谷駅を降り、徒歩で学園に向かっていたが、途中、七曲坂の極めて急な階段を一気に登り切ることが出来ず、途中で休みを取っていた。その階段の途中で汗を拭きながら深呼吸していると、私の後からタッタッタッと階段を登る軽快な足音が聞こえてくるではないか。やがて、その足音は私に追いつき、休憩している私を尻目に追い越していった。しかも一度も休まずにである。追い越される際、私はチラッとその人の横顔を見たが、血色の良い銀髪の年長の人であったことを覚えている。「世の中には元気なお年寄りがいるものだな。」と、正直、その時は驚いた。
やがて設立総会の定刻となり、渋谷一郎理事長(当時)が、ある方を連れて教室に入ってこられた。理事長曰く、「この方が後援会の初代会長をお願いする長井さんです。」
私は、「アッ!」と2度ビックリ。理事長が連れてこられた血色の良い銀髪の人こそ、先ほど七曲坂の急な階段で颯爽と私を追い抜いていった長井弘さん、その人であった。聞けば、当時、長井さんは70歳であったが、「39歳の頃から、晴れの日も雨の日も毎朝10キロのマラソンを欠かしたことがない。」と言われ、そのマラソンの累計距離は、間もなく地球と月の距離(約39万㎞)に達するというではないか。更には、当時も年に1~2回のフルマラソン(42.195㎞)に挑戦し、今まで参加したフルマラソンの大会は全て完走したとのことであった。なるほど、あの七曲坂の急峻な階段を一気に駆け上がるなど、並外れて健脚なはずである。

 長井さんと言えば、忘れられない思い出がもう1つある。皆さんよくご存じの「酒豪」である。長井さんは、会長に就任後、「自分(長井さん)の役割は、在校生ならびに卒業生の保護者に後援会に喜んで入会してもらうことである。そのためには、会の活動が楽しくなくてはならない。また、それには会員どうしが仲良くすることが大切である。」とよくおっしゃっていた。そして、私たち会員どうしの親睦を図るため、何度かバス旅行を企画して下さった。行き先は、ご出身地群馬県の四万(しま)温泉、富岡製糸工場、高崎(だるま)、水沢(うどん)、茂林寺(分福茶釜で有名)などである。
さて、あるバス旅行での話。行き先の四万温泉へは横浜駅前からスタート。バスが出発した直後、早速車内で「乾杯!」、途中の観光地でも「乾杯!」、昼食時ももちろん「乾杯!」、このような訳で、旅館に到着した時には既に出来上がった状態。その後、夕食時も美味しい料理を肴に「乾杯!」、更には温泉入浴から上がった際、夕食後の懇談の席、夜食の際も飲みに飲み続け、酩酊状態で無事に?一日を終えることができた。この時、私は「一生分のお酒を飲み尽くしたかも」と思ったことを覚えている。

長井さん、お疲れ様でした。ほんとうにお世話になりました。ありがとうございました。今ごろは、天国で長井さんを待っていらした奥さまと、お酒のグラスを片手に談笑していらっしゃることでしょう。
私は、長井さんに「さよなら」とは申し上げたくありません。いつの日かきっと再びお目に掛かれると信じています。長井さん、どうかその日まで、しばしゆっくりお休みになって下さい。それでは、またお会いする日まで「ごきげんよう」。
                                                    以上

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